盒教殿析 - あゆみ

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年号 年齢 年譜
1901(明治34)
0歳
4月25日、千島で漁業に従事する父盒教銅、母フデの長男として北海道根室町(現在根室市)に生まれる。「菊太郎」と命名される。父菊治は岩手県沼宮内町(現在岩手町)出身。
1915(大正4)
14歳
この頃から詩歌を作り始める。
1919(大正8)
18歳
根室商業学校を中退し、茂又勝雄の私塾に通い、国文学を学ぶ。
1920(大正9)
19歳
父菊治他界。享年50歳。根室新聞社に入り、社会部記者となる。この頃より、盒興嫻箸離撻鵐諭璽爐琶厳欒萋阿鮖呂瓩襦
1921(大正10)
20歳
1月、初めての戯曲「春の湖」を地方の新派芝居喜多村春男一座に書く。
2月、野口雨情の民謡集「別後」(尚文堂)が出版される。この頃、野口雨情の主唱する新民謡運動に共鳴。詩作に影響を受ける。詩稿「生命」を私淑する生出春月のもとへ持ち込み、出版を試みるが実現せず。
1922(大正11)
21歳
12月、函館日日新聞社に転ずる。後に昭和2年頃、同社社会部長兼学芸部長となる。
1925(大正14)
24歳
この頃、戯曲の研究にも打ち込むほか、邦楽にも興味を持ち、長唄、清元、常磐津など試作する。
1926(大正15)
25歳
10月、函館花柳界の委嘱により「函館音頭」(鳥羽屋三十郎作曲)を作詩。これが、世に用いられた最初の歌謡作品となる。続いて、常磐津「北の幸」(常磐津梅治作曲)を作る。
1927(昭和2)
26歳
5月、抒情詩集「若き日の墓」を東京閣から出版する。序文は野口雨情、勝田香月。
1928(昭和3)
27歳
「函館行進曲」を自作映画(原作、脚色、監督盒教殿析)の主題歌として作る。清元「生玉心中」(清元喜久造作曲)を発表。
1929(昭和4)
28歳
岩手県沼宮内町(現在岩手町)28番に新たに戸主として本籍を置く。
1930(昭和5)
29歳
小樽新聞社募集の「小樽小唄」に応募し、一等に当選する(選者時雨音羽)。佐々紅華作曲によって、6年5月にコロムビアレコードからレコード発売される。
友人片平庸人が発行する民謡雑誌「艸」に「酒は涙か溜息か」を発表。
7月、槇妙子と結婚。函館市宝来町で新婚生活を送る。「酒は涙か溜息か」「私この頃憂鬱よ」の2篇を新進作曲家古賀政男を指名してコロムビアレコードへ送る。
1931(昭和6)
30歳
5月、「函館行進曲」(貝塚正治郎作曲)がコロムビアレコードからレコード発売される。
9月、「酒は涙か溜息か」(歌手藤山一郎)、「私この頃憂欝よ」(歌手淡谷のり子)を古賀政男の作曲でコロムビアレコードから発表。全国を風靡する空前の大ヒットとなる。盒教殿析此古賀政男、藤山一郎、淡谷のり子の4人にとってはじめてのヒット作となる。
1932(昭和7)
31歳
一家を構えて母や妹を函館に迎える。
1933(昭和8)
32歳
函館日日新聞社を退いて妙子夫人とともに上京。居を東京蒲田に構え、作詩生活に入る。コロムビア、キング、テイチク、ニットー、ツルその他各レコード会社から作品を発表する。
1934(昭和9)
33歳
5月、コロムビアレコードの専属作詩家となる。
1935(昭和10)
34歳
長男公郎氏誕生。
1936(昭和11)
35歳
5月、沼宮内自治會館落成祝賀会に、委嘱作品「沼宮内行進曲」(飯田三郎作曲・歌手伊藤久男)「沼宮内音頭」(飯田三郎作曲・歌手音丸)披露のため招かれる。
1937(昭和12)
36歳
「菊太郎」を「掬太郎」と改名する。
1938(昭和13)
37歳
6月、「盒教殿析魂龍塀検廚新興音樂出版社より出版される。
1939(昭和14)
38歳
1月、「追分の研究」を新興音樂出版社から出版する。
8月から10月まで北支戦線に陸軍省嘱託として従軍し、軍歌、歌謡曲、童謡、三味線小唄などを作詩する。北京にて発表会を開く。
1940(昭和15)
39歳
長女真樹子さん誕生。
1941(昭和16)
40歳
秋、童謡「山の子供」(平井康三郎・コロムビアレコード)が時の文部大臣から賞を受ける。
12月、後進指導のため、汸々詩舎(ほうほうししゃ)を設け、直接、又は通信による指導を行なう。昭和45年に没するまで入門者は約2,000人に達した。その中から藤間哲郎、大高ひさを、石本美由紀、宮川哲夫、梅本たかし、東條寿三郎、山崎正などレコード界で活躍する多数の作詩家を輩出している。
1943(昭和18)
42歳
10月、佐藤惣之助との合著による「民謡と歌謡研究」を東亜文化書房から出版する。
1944(昭和19)
43歳
序文を執筆した戦時歌謡集「南の雄叫び」が目本歌謡詩報國社から出版される。
1946(昭和21)
45歳
3月、コロムビアレコードを退き、キングレコードの専属作詩家となる。
9月、「歌謡の作り方」を東亜文化書房から出版する。
12月、木版詩晝集「青い小函」を文禮社から出版する。
1947(昭和22)
46歳
2月、日本音楽著作家組合の結成に参加する。第1回より常任委員に選任され、後に33年副委員長となる。
4月、趣味と情緒の新版晝詩集「花かんざし」を文禮社から出版する。
10月、「君もしレコード藝術家になりたくば」をキングレコード出版部から出版する。
1948(昭和23)
47歳
3月、大田区立御園中学校PTA会長に就任する。在任7年間。
5月、社団法人日本音楽著作権協会の理事に就任する。継続5期(常任理事1期)務め、後に評議員となる。作品審査委員(副委員長)、新著作権制度対策委員、定款改正審議委員などの任につく。
7月、大田区立矢口東小学校PTA会長に就任する。在任4年間。
1949(昭和24)
48歳
4月、大田区立小学校PTA連合会会長に就任する。これに関連して大田区立蒲田地区小学校PTA連合会会長、東京都小学校PTA連絡協議会指導部長にも就任。
5月、汸々詩舎、歌謡文芸、歌謡街、歌謡山脈の四社合同詩話会が越後湯沢温泉で開催される。大田区教育振興対策委員会会長に就任する。
1950(昭和25)
49歳
1月、抒情詩集「青き貝殻」を新興音楽出版社から出版する。
2月、大田区俳句連盟の結成により初代理事長に就任する。3期を経て昭和31年11月に会長に選任される。
5月、同志とともに日本民謡協会を結成し、理事となる。
1951(昭和26)
50歳
2月、大田区小林町二十九に転居する。(現在の大田区東矢口)
10月、文部省の著作権法改正案起草委員会の委員に任命される。
1952(昭和27)
51歳
4月、大田区育英資金貸付審議会副会長に就任する。註繹付き「端唄、うた沢、小唄全集」を新興音楽出版社から出版する。
5月、蒲田郵便局管内簡易保険加入者の会会長に選任される。これに関連して簡易保険加入者の会東京都連合会長、同東京地区(全関東と山梨)副会長、中央連合簡易保険加入者の会委員、財団法人簡易保険加入者協会評議員、財団法人簡保サービス協会運営審議委員、簡易保険郵便年金福祉事業団運営委員など、その第1回から歴任。同じく5月多年に亘り各地の少年院又は刑務所のため院歌や所歌を作詩し、社会を明るくする運動に協力したことにより、法務大臣に表彰される。
8月、母フデ他界。享年78歳。
1954(昭和29)
53歳
7月、犯罪の矯正事業に多年協力したことにより法務大臣表彰を受ける。
1955(昭和30)
54歳
5月、東京女学館高等部父母の会の代表となる。続いて33年4月より同校短大父母の会の代表となる。
12月、「民謡パトロール」をしなの書房から出版する。
1956(昭和31)
55歳
4月、「日本民謡選集」を新興音楽出版社から出版する。
5月、社団法人日本著作権協議会理事に就任する。
8月、「流行歌三代物語」を学風書院から出版する。
11月、日本民謡協会より民謡文化章を受ける。
1959(昭和34)
58歳
12月、NHKテレビ番組「黄金の椅子」に出演。(詩人としては西條八十に次いで2人目)
1960(昭和35)
59歳
5月、同志とともに日本詩人連盟を結成する。第一回より常任理事を歴任。
同5月、「日本民謡の旅」上巻を第二書房から出版する。
8月、「日本民謡の旅」下巻を第二書房から出版する。
10月、「盒教殿析細馨隹陵惱検廚鯀寛山敝莉佝納劼ら出版する。
10月15日「盒教殿析裟萓減郢軅験35周年記念祝賀会」が各界の名士が発起人(代表泉山三六氏)となり、東京丸の内会館で開催される。
1961(昭和36)
60歳
3月、NET(日本教育テレビ)番組「夫と妻の記録」に出演。
9月、函館市宝来町に「酒は涙か溜息か」の歌碑が建立される。
10月、長男公郎氏、金子和代さんと結婚の挙式。
1962(昭和37)
61歳
7月、関東ラジオ体操連盟副会長に選任される。
1963(昭和38)
62歳
4月19日、多年簡易保険事業に協力したことにより郵政大臣の表彰を受け、郵政事業功労者として皇居に召され、賢所に於いて天皇陛下の拝謁をたまわる。
5月、「汸々詩舎年刊詩謡集(1963)」が汸々詩舎から出版される。
10月、能登の七尾市に「古城」の詩碑が建立される。
1964(昭和39)
63歳
7月、自らの主宰により「音楽著作権公論」を発行する。著作権思想の普及に努め、法改正に情熱を注ぐ。
8月、「汸々詩舎年刊詩謡集(1964)」が汸々詩舎から出版される。
1966(昭和41)
65歳
2月、長女真樹子さん、西山賢二氏と結婚の挙式。能登の七尾城趾に「あ、七尾城」の歌碑が建立される。
1967(昭和42)
66歳
6月、財団法人日本民謡協会の理事長に選任される。
10月、日本作詩家協会顧問に就任する。
12月、財団法人勅使河原和風会理事に就任する。
1968(昭和43)
67歳
11月26日、文部大臣から紫綬褒章受章の伝達を受ける。『多年作詩に精進し、多くの優れた作品を発表するとともに、後進の育成に努めてよく大衆歌曲の向上に寄与した』ことがその受章理由。「酒は涙か溜息か」の作曲家古賀政男氏、その映画化作品「想ひ出多き女」の主演女優栗島すみ子氏も同時に受章。
12月2日、明治百年を記念し岩手県岩手町より町勢功労表彰を受ける。
12月10日、「紫綬褒章受章記念盒教殿析困気鵑鮟砲Σ顱廚関係団体代表五十氏を発起人に、また、著作権関係の親友九氏が世話人となって、丸の内東京会館で盛大に開催される。
1969(昭和44)
68歳
4月9日、佐藤首相主催による新宿御苑の観桜会に招待され、夫人同伴で出席する。
1970(昭和45)
69歳
3月9日、慈恵医大に入院する。
4月9日、他界する。享年六十九歳。同日従五位に叙せられ、勲四等旭日小綬章を授与される。
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