園井恵子 - 資料

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原爆が奪った未完の女優 − 岩手県松尾村編

昭和20年4月 袴田トミから中井志づ宛

 

お元気ですか。
長いことご無沙汰してしまいました。
先生のところに来たことを、だれよりも喜んでくださるのは、六甲の母さんであることを知っているくせに、くわしくご報告もしないでごめんなさい。
東京に最後までとどまり、先生のおそばで勉強させていただくつもりでしたのに、広島へ劇団疎開することに決まり、私も一緒にまいることになりました。
「生きていくうえは、いま死んでも、悔いない生活でなくてはならない」。
このごろ盛んに謳われている言葉ですが、ほんとうにいま死んでもいい生活をしている人が、幾人いるでしょうか。
求め求めて、とうとう広島行きとなりました。
これが、ほんとうの生き方だかどうかわかりませんが、できるだけ、いいえ、できるまでやります。
私が、東京に残るため広島行きを断ったら、劇団を解散するとか何かとごたごたして、三好十朗先生にも、「あなたは、芝居をやめる人ではない、とにかくやりなさい。
選ばれた人は、最後までやめてはいけない。
苦楽座の集まりのないときでも、私と話にいらっしゃい」とすすめられ、二日ぐらい考えたあげく、永田氏に負けました。
丸山さんは、黙って廊下に座って、頭を下げられました。
これからは、丸山さん、永田さんに引きずられるのではなくて、私がひっぱってまいります。
やわらかく、強く手綱を取っていくことにしました。
このあいだから、私のほうが次々入れられるようになりました。
ひとつには、発表することができるようになったゆえもあると思います。
大人になってきたのですね。

 

中井康恵様
園井恵子
(この手紙は中井志づの遺品の中にあり、5枚の小型用箋に書かれたものである。別記して"最後の手紙"とあることから昭和20年4月14日ごろ、袴田トミから中井志づ宛のものと推定される)

袴田トミから河崎なつ宛のハガキ

昭和20年5月17日

 

途中、京都で降ろされたり、明石で降りたり、網干で降りたりして、31時間以上もかかってやっとここ三原市に着いたのが、12日の17時ごろ。
15日、広島に着き、今日17日、朝7時半、予定よりあまりにも早く帰京なので、ゆっくりなさるだろうと思い、六甲に2、3日泊まります。
これは、東京へまっすぐに帰るお友達に、東京で出してもらいます。
20日か21日に帰ります。
6月10日ごろ、再度広島へ向けて出発の予定です。
電話がありましたかしら?
相変わらず朝早くから畑でしょうね、お元気で。

 

5月17日
河崎なつ様
園井恵子

絶筆 - 母に宛てた最後の手紙

(昭和20年8月17日、被爆後、身を寄せていた神戸の中井家でしたためる。亡くなる4日前。)

 

ー略ー
お会いしたくて、たまらなくなりました。
ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。
母さんや、赤山さん、油町のおばさん、おりつおばさん、それにみよちゃん、きみちゃん、哲ちゃん、康さんまでが、いつも私のことを心配していてくださる。
その気持ちが、今度のこの幸せを生んだものと思います。
33年前の、しかも8月6日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。
時局のこうした流れのなかにも、日本国民として強く立ち上がるようにと、神様の思し召しかもしれないと、おおいに張り切っています。
ほんとうの健康に立ちかえる日も近いでしょう。そうしたら、元気で、もりもりやります。やりぬきます。
これからこそ、日本の国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うための、なんらかのお役に立たなければなりません。
皆さんお元気で、食料増産に励んでください。
いよいよきみちゃんのお望みのお百姓時代が来ました。
母さんと、みよちゃんと、3人でどうぞしっかりおやりください。
哲ちゃんと康ちゃんは、うんと勉強してください。
何でも知ることです。何でもやることです。
実行し、反省、そして実行です。元気で頼みます。
皆さんによろしくお伝えください。

 

母さん江
8月17日
眞代

広島・宇品に慰問に見えた園井さん

昭和20年8月6日、午前8時15分。広島の上空に飛来した米軍のボーイングB29が投下した新型爆弾は、
地上約六百メートルの上空で爆発、一瞬にして広島全市を灰儘(かいじん)に帰してしまった。
人々は原子爆弾とは知らず、七十数年、人類は住めず、草木も枯れ、たとえ育ったとしても、ジャガイモやサツマイモなどは奇形なものになると、恐れおののいていた。
この原子爆弾を、当時の人はピカドンといったのである。
投下されたその日に死亡した人。そして被爆して3日目、1週間、10日、15日と日を追うごとに、尊い生命を失っていったのである。そして8月15日、ついに終戦。
当時、船舶兵として広島の暁部隊にいた私は、そのショックと、いままでの放射能の影響が出たものか、体の調子も徐々に弱り、ついに発熱して寝込んでしまった。
「岡田シッカリしろッ、元気を出せッ」炊事の主計係をやっていた戦友の左坤上等兵が熱を下げるのに効くからと、ミカンの缶詰を持ってきてくれた。
「アリガトウ、すまないなア……」「心配するな、早くよくなれよ……。
それより岡田、丸山定夫サンと園井恵子サンが死んだってよ」
芸能界のことに関心を持っていた彼が、どこからか聞いてきたらしい。
丸山定夫サンは8月16日、宮島の存光寺というお寺で、園井恵子サンは被爆した数日後、髪をとかそうと櫛を入れたら、ゾロッと毛が抜けて、それから間もなく、神戸の後援者の家で8月21日に亡くなったらしいと知らせてくれた。
 

江戸家猫八

園井恵子 幼き日の日記より

岩手県の盛岡から少し北に寄ったところに、川口という小さな田舎町があります。
そこには毎年、冬になるとたくさんの降雪があり、一尺五寸ぐらい(約45センチ)積もるのはしょっちゅうのことです。
川口駅では東北地方の例にもれず、正当な発音をすべき駅員までが、汽車が着くと早速"カワグツ!……カワグツ!と呼びます。
私は瓜々の声をあげてから小学校を出るまで、その川口で育ったのでした。
低い雲と深い雪に閉ざされた北国の町には、3月もおわるころになると、思い出したように一時に春が甦ってきます。
そして、私たちの周囲は目醒めるような若草の色と、輝かしい太陽の光に満ち溢れるのです。
そして歓喜の春が夢のように過ぎると、続いて一年じゅうでいちばん楽しい行事である夏祭りと盆踊りとが近づいてきます。
祭りの日は町じゅう大騒ぎで、氏神様の境内には松明を焚き、大きな額や、いくつもの山車が、若い衆の肩に担がれて、町筋を神社へ神社へと練って行きます。
私はそうした額に描かれた天ノ岩戸の絵や、楠正成のハリボテの像に気を惹かれて、知らず知らずのうちに、ついお宮参りをしていたこともしばしばありました。
こうした夏祭りもさることながら、町じゅうの人々のいちばんの楽しみといえば、旧暦8月15日に行われる盆踊りでした。
私たちの町では、特定の場所で踊るというのではなく、初め少人数の人が道筋で円を作って踊り始めると、
見物をしていた人々が次第にそれに加わり、円形が楕円形になり、それがまた長く長く4町(約400メートル)にも延びて、ぐるぐる踊り続けるのです。老若男女の別なく、みんな楽しげに、同じ歌を歌い、同じ手振りを繰り返して、何時果てるとも思われません。
私は子供心にも、夏、涼しい星空の下に展開される、この地方色豊な盆踊りが無性に好きで、よく見物に出かけました。
少女雑誌で見る宝塚というものへ、私がある憧れを抱き始めたのも、ちょうどこのころ(小学校3年)からで、よくはわからないながらも、同じく宝塚好きのお友達と本を前にしては、おぼろげな幻を描いて語り合ったものでした。
そんな心持ちが嵩じてか、小学校を終えるころには、宝塚へやらせてくれなくてはと、母にせがむほどになっていいました。
しかしその入学の望みも、やむなく中断しなければなりませんでした。

 

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