板垣桑蔭 - 号のいわれ

ホーム >  偉人  >  板垣桑蔭 - 号のいわれ

明治元年(1868)7月、盛岡藩は奥羽同盟に組し、官軍に抗し、秋田と抗戦、佐々木直作も輜重を掌り従軍した。

南部藩檜山佐渡の指揮のもと善戦したが、官軍と秋田郡に降伏、賊軍の汚名を受けた。

 

明治元年11月11日(9月8日明治と改元)檜山佐渡、江端五郎(江幡悟楼)、佐々木直作の三名は戦争責任者として官軍に引渡され、芝、金地院(こんちいん)に幽閉される。

 

東上の道すがら、老母の身を案じて詠める和歌

「夜もすがら 涙に床の凍りつつ 老の寒さや いよよ添ふらん」

 

上席家老檜山佐渡は明治2年6月23日盛岡報恩寺にて切腹、刎首となった。
佐々木直作も死をともにしようとしたが、藩公の将来力と切望され思いとどまった。
明治新政府もその学を惜しみ、一名の切腹とした。
明治10年江幡と佐々木直作は謹慎を解かれる。

 

明治2年10月21日には家督を征徳にゆずり、、沼宮内の里に隠棲し、村の青年の指導にあたった。

明治新政府はその博学を利用しようとしたのであるが、全く応じなかったとの事である。

 

沼宮内五日市の地に住み、今は草葉の陰の亡き人ということで、板垣草陰と号する様になった。

 

板垣桑蔭住家

 

周囲の入々からそれではあまりであるとの事で、後に桑蔭と改められたと聞く。

プリンタ用画面