板垣桑蔭 - 文献から

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南部史要によると

本名 佐々木直作
南部藩の漢学者、勘定奉行として留守居をかね、檜山佐渡(ならやまさど)に従い、京都にありしが、秋田との戦には輜重(しちょう)を掌って従軍せり。

名人忌辰録によると

板垣政純(初め佐々木直作と称す)字は小得、羊我と号した。
また直斎と号す。通称直作、後に桑蔭(草陰)と改めた。
利剛公の嘉永3年(西暦1850)5月待誌に任用され、且つ藩校の助教である。

文化14年(1817)12月20日生れ、明治維新の際、檜山佐渡、江幡五郎と共に政見を等しく獄に投ぜられた。後赦に遇い、明治27年(1894)11月8日、78才で歿(ぼっ)す。

巌手那誌によると

(昭和16年11月初版、岩手県教育会岩手郡部会発行)

板垣桑蔭、元佐々木直作、父を伊兵衛、母をつねという。

南部藩士で維新前藩の勘定奉行の重にありしが、維新後事に困り明治6年移住して五日市桜山下に居をトしたが、学識徳望一郷を圧し、漢学塾を開いて子弟の教育に当った。

教えを乞うもの引きもきらず、明治27年逝去するまで熟心に地方子弟の育英に従事した。

沼宮内町(現岩手町)に於ける中堅人物は皆、其の門下であって実に沼宮内町文化発達史を飾る恩人である。

 

明治12年より2ケ年、北岩手郡役所が大更村に置かるるや、郡長として郡治に貢献した所尠(すくなからず)くない。明治27年11月8日逝去せらる。子孫悉(ことごと)く顕栄(立身出世すること)している。

参考諸家系図によると

(県立図書館蔵)

先祖は清和源氏の流れを受けており、建久二年(1191)12月、南部三郎光行公に従い、甲斐から八戸浦に上陸したと考えられる。

 

板垣桑蔭家系図
以上が板垣桑蔭について文献により、わかったことである。
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