園井恵子 - 略歴

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園井恵子

岩手町川口(旧川口村)で幼少期を過ごし、宝塚で活躍した元宝塚歌劇団スター。
宝塚少女歌劇を夢見て育ち、ついにその夢を実現。
そして演劇へと道は進み、映画「無法松の一生」で国民的な名声を得る。
しかし戦争の悲劇が突然、彼女を襲う。
広島に落とされた原爆に遭遇し、命を落としてしまうのである。

経歴

大正2年 8月6日 岩手県岩手郡松尾村(現 八幡平市)に生まれる。本名 袴田トミ。
大正9年 4月 岩手郡川口村立尋常高等小学校入学、15年3月尋常科卒業。
大正15年 4月 盛岡市岩手女子師範附属小学校高等科入学。
昭和2年 4月 北海道庁立小樽高等女学校入学、2年1学期末まで在籍。
昭和4年   宝塚音楽歌劇学校入学。6年3月本科卒業
昭和5年 4月 宝塚少女歌劇団「花組」笠縫清乃で初演、年の暮れ、園井恵子に改名。
昭和6年 1月 「月組」に編入、8年5月までの間“ライラックタイム”“女王万歳”他、出演。
昭和8年 6月 「星組」に移る。13年12月まで所属。
この間“指輪の行方”“花詩集”“リュシュヤシュリンガ”“アルルの女”“憂愁婦人”“マリオネット”“花嫁特急”他、出演。
昭和14年 1月 「星組」の解散により「雪組」に編入、17年6月退団まで所属。
この間“連帯の娘”“みち草”“赤十字旗は進む”“ピノキオ”他、出演。古川緑波一座に客演など。
昭和17年 11月 東宝演劇研究会第4回公演“ファースト”出演、12月苦楽座第1回公演“玄関風呂”他、出演。
昭和18年 10月 第4週公開封切り、大映映画“無法松の一生”出演。
昭和19年 11月 苦楽座の一員となり、西日本各地を巡演。
12月苦楽座解団、国策に沿い結成される「苦楽座移動演劇隊」(桜隊)に参加。
昭和20年 8月 西日本巡演中、6日、広島の原爆に遭遇、21日、神戸の知人宅において絶命(33歳)。盛岡市北山、恩流寺に眠る。
東京都目黒区、五百羅漢寺境内、ならびに広島市平和大通り「移動演劇さくら隊殉難碑」に祀られる。

弘隆社『彷書月刊』1998年8月号より

小学校3年の頃から、宝塚のスターを夢みた袴田トミ。

 

1913(大正2年)8月6日、父清吉・母カメの長女として松尾村に生を受け、翌年商人の両親と川口村に移り、川口村立小学校尋常科を卒業。
岩手女子師範附属小学校高等科に学び、北海道庁立小樽高等女学校に進学するが、2年生の6月周囲の反対を押し切って退学。
宝塚音楽歌劇学校の門を叩き、入学が許される。
翌年本科に進み、歌劇団花組の4月公演「春のおどり」で夢の初舞台を踏む。
間もなく両親が商売を失敗し、二人の妹と弟を連れて来宝。
彼女も寄宿舎を出て同居するが、父は病弱のため、妹と二人で家計を支える暮しは貧しかった。

 

しかしいつも明るい人間関係と熱心な幅広い彼女の芸は、小林一三校長をはじめ、内外から注目を集めていく。
その宝塚を1942年30歳の春「ピノチオ」の主演を最後に退団。
家族を盛岡に移し、舞台女優を目指し東京に出る。
ここで新劇の団十郎いわれる丸山定夫や徳川夢声らの苦楽座で活躍。

 

1943年映画監督稲垣浩に乞われて、時の人気俳優・阪東妻三郎と「無法松の一生」に共演、一躍全国の映画ファンを魅了する。

 

同監督らの次の撮影準備が進められている中、移動演劇桜隊に参加し、昭和20年8月6日、32歳の誕生日の日広島の宿舎で原子爆弾に遭遇。
一命はとりとめて、神戸の恩人宅まで逃れ、15日の終戦を迎え、17日「本当の健康に立ち返る日は近いでしょう。之からこそ日本の立ち上がる気力を養うためお役に立つ」決意の程を、母への便りに書いたが、容態は急変。

 

原爆症のため、21日他界していった。無念極まる死だった。

 

亀井実(かめいみのる) - 元岩手町教育長・園井恵子研究家

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