南部信直

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南部信直(なんぶのぶなお)


戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。

南部氏中興の祖といわれる南部氏第26代当主。

南部家第22代当主・南部政康の次男・石川高信の庶長子として岩手郡一方井で生まれる。

従兄弟である南部氏第24代当主・南部晴政に男子が無かったため、その娘を正室として養嗣子として迎えられた。しかし元亀元年(1570年)、晴政に実子・南部晴継が誕生すると、次第に晴政から疎まれるようになり、本人も身の危険を感じていたのか、天正4年(1576年)に正室が早世すると養嗣子の座を辞退し、田子城に引き籠もった。



田子町牛尾舘跡石碑


天正10年(1582年)、晴政が死んで晴継が第25代当主を継承した。しかし同年、晴継は謎の暴漢集団によって暗殺されている。これには信直の暗殺説も囁かれている。更に近年では信直によって内戦が引き起こされた結果、晴政親子が攻め滅ぼされたという説も浮上しているが、真偽のほどは不明である。


晴継の後継として一族の九戸政実の弟・実親を推す意見もあったが、南長義や北信愛から支持された信直が、南部氏第26代当主を継承することとなった。このため九戸政実は遺恨を抱き、家中は不穏な状態であった。



信直公御在城古跡の図


豊臣政権期


天正14年(1586年)、高水寺斯波氏の当主・斯波詮直を滅ぼして勢力を拡大した。天正15年(1587年)には北信愛を名代にして加賀の前田利家に対し、豊臣政権に臣従する意思を示している。天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣して所領は安堵された。小田原征伐後、秀吉が奥州仕置で奥州に遠征した際、浅野長政と共に先鋒を務めた。


天正19年(1591年)、九戸政実が反乱を起こすと、秀吉の援軍を得て鎮圧し、政実や九戸実親ら謀反人を処刑している。天正20年(1592年)からの朝鮮出兵では、秀吉に従って肥前名護屋城に参陣したが、朝鮮に渡海せずして帰国を許されている。


最期


肥前より帰国後は、盛岡に居城を定め、築城に着手するなど、領内の基盤固めに専念した。(九戸の乱後の仕置によって、南部は伊達政宗と領地を隣接することとなり、盛岡への本城の移転は狡猜な野心家である政宗の侵略に対抗する為の防備であったという)

慶長3年(1598年)に秀吉が死去すると、徳川家康に接近する。

盛岡城完成を間近に控えた慶長4年(1599年)10月5日、福岡城で病死した。

享年54。

後を長男の南部利直が継いだ。


エピソード


豊臣秀吉による小田原攻めのとき、奥州の大名たちは参陣するかどうか迷っていた。

結果的に、参陣すれば領土が安堵されたが、当時はどうなるのか不明で、うかつに小田原へ行き、留守を近隣の大名、豪族に奪われる危険もあり、また、仮に秀吉が負けるようなことがあれば、目も当てられない状況になる。


南部利直もまた迷った。

色々油断のならない人物がいたが、信直と同列の大家八戸政栄も油断ならない人物だった。

信直は、わずかな家来を連れて八戸政栄に会いにいき、将の器のある者が小田原へ行き、秀吉に本領を安堵してもらい、残った者は、その家来となって留守を守ろうと提案した。

政栄は、「貴殿が人の長たる器でございます。仰せの通り、領国を守り、貴家に仕え、貴家を盛りたてることによって、我が家の長久も保ちましょう」と答え、以後忠実な家臣として、南部家のため活躍したという。


もともと南部家は、「三日月の丸くなるまで南部領」と言われたほど広大な領地を持っていた。そもそも、南部信直は南部宗家の人間ではなかった。


南部家24代晴政には、男子がいなかったので、信直を婿に迎え、25代目は信直と内定となった。


信直はその後の鹿角合戦などで、南部家世子に恥じない活躍をしたが、晴政に長男が誕生してしまう。


娘の夫よりも、実の息子に家督を継がせたいと考えてしまうのが人の情。

次第に晴政と信直の間には、亀裂が入り始めていった。


決定的な不和を示すものとして、信直の実父、石川高信の死後に津軽地方を大浦為信に奪われてしまった際、信直は当然のように父の旧領を奪還すべく、出兵を要請した。

しかし、晴政はかねてから「南部の隆盛は石川高信と九戸政実の尽力によるもの」との風評を気に入っていなかった為、むしろ気味が良いとばかりに石川領奪還の兵を出し渋り、信直の怒りを買ってしまったというエピソードもある。


その後、信直の妻が死去し血縁が切れたため、また晴政に疎まれ身の危険を感じた信直は養子を辞退。

晴政が強い不信を抱いているのを知った信直は、居城を転々とした。

その後、晴政が死去。実子の晴継が25代を継いだが、父の葬儀を終えた夜に何者かに暗殺されてしまう。

ここに家督争いが勃発し、最終的には信直が26代を継いだが、南部家の支族九戸氏が猛反発。

後の九戸の乱を起こす引き金となる。

実は、晴継の葬儀を終えた信直も襲撃されている。

晴継、信直と暗殺をしようとした人物の正体は不明。


南部家を継いだ信直は、これまた支族の津軽為信の反乱を鎮圧しようと思い、九戸政実に討伐を命じたが、政実は動かず。信直自身が出ようにも、九戸氏の反乱も気になり、野放し。結局、津軽為信に、津軽を横領されることとなる。


信直は、その後の小田原の陣にいち早く参戦し、豊臣秀吉から本領安堵を受ける。


これで津軽氏、九戸氏を駆逐できると思ったのも束の間、津軽為信はその一ヶ月前に既に秀吉と謁見し、領土を安堵されており、津軽地方は取り戻せなかった。


しかし、九戸政実が反乱を起こすと、秀吉に訴え、討伐軍を派遣してもらい、鎮圧した。

これでようやく信直は、領内の基盤固めに専念できるようになり、不来方(盛岡)城の築城を始めた。


略歴


1546年(天文15年)(1歳) - 田子城主、石川高信の子として岩手郡一方井で生まれる。

     幼名:亀九郎、田子九郎

    父:石川高信(第22代当主南部政康の二男)

    母:一方井安政の娘・芝山芳光大禅定尼


●南部家の養子


1565年(18歳) - 嫡子のなかった南部晴政(第24代当主)の養子となり、三戸城に入る。

  正妻:南部晴政の娘

  子:南部利直(第27代当主)など1男2女


1570年(23歳) - 養父、南部晴政に嫡男(南部晴継)が誕生したことから、晴政に疎まれるように。

1571年(24歳) - 津軽為信に、実父、石川高信を討たれる。

1572年(25歳) - 晴政に疎まれたことから身の危険を感じ、南部家の相続を辞退。

1582年(35歳) - 養父、南部晴政が病没。

   その直後、晴政の後継、南部晴継が暗殺される。

   (信直の家臣、北信愛らが暗殺したという説が有力)


●南部家相続


その後、晴政の二女を妻としていた九戸実親との抗争に勝利し、南部綜家を相続する。

これにより九戸実親の実兄、九戸政実と家中において対立。


●秀吉への臣従


1586年(39歳) - 前田利家を通じて豊臣秀吉に接近。

1590年(43歳) - 豊臣秀吉の命を受け小田原城攻めに参陣。

  豊臣秀吉の奥州仕置では、本領(陸奥国陸奥南部、陸奥国陸中北部)を安堵される。

1591年(44歳) - 九戸政実の乱が起こると豊臣秀吉に報告。

  乱は豊臣秀次の討伐軍に鎮圧される。天正19年(1591年)9月4日

  その後、領地替えにより、九戸城(後に福岡城)を居城とする。

1592年(45歳) - 文禄の役(朝鮮出兵)に参戦。(渡海したかは不明)

1598年(51歳) - 嫡男、南部利直に命じ、不来方(盛岡)城の築城を開始。

1599年(52歳) - 福岡城で病没。(慶長4年享年52歳)

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