一方井城趾

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一方井城趾(新館、別称 輪台城・久井館)


一方井城趾は、高山(標高429m)南端のふもとから南西に広がる丘陵地の突端約500m先に位置し、その突端の西側を北から南、東に流れる一方井川が巡り、北側は深い堀で仕切られ、東、西、南側は、30m位段差の急斜面で、自然の地形を利用した面積30,000m2程の山城である。



城は、三つの郭からなる多郭構造で、周辺を二重、三重の堀を巡ぐらせている。

築造された時期は、構造から16世紀頃と考えられ、現在でも館や中館、大手花などの当時の名残りをとどめる地名や屋号が残っている。


当城は、阿倍貞任の庶流、秋田の安東氏の子孫がこの地に来て一方井氏となり、居城として代々領有し、南部氏が南進する拠点として重要な役割を果たした。


豊臣秀吉の諸城破却令により、文禄元年(1592)頃に一方井城を含む南部領内の36城が壊され、後年一方井氏一族は、盛岡城の築城とともに盛岡に移り住んだといわれている。



輪台城跡から岩手山を望む


南部(盛岡)藩の基礎を築いた武将「南部信直公」生誕の地


南部家中興の祖といわれる信直公は、南部家第22代政康公の二男石川高信(田子城主・田子高信)を父に、一方井丹後安政の娘、芝山芳光大禅定尼公を母に天文15年(1546)3月1日に一方井城に生まれた。


幼名を亀九郎と言い、幼少時代を修験者自光坊(伝九郎利臣)から読み書きを学び、英才雄知にして、文武に秀でた人物に育った。


永禄元年(1558)、母と共に田子城に移り田子九郎と称した。

17歳頃元服し、名を信直と改めた。


24代当主晴政公(養父)50歳にして男子なく、信直公は、永禄8年(1565)、その世子となる。その後晴政公に54歳で男子晴継が生まれ、信直公は、一旦その地位を退いたが、天正10年(1582)に晴政、晴継公が前後して死去し、同年37歳で南部家第26代当主として三戸城に迎えられ、名を南部大膳大夫と改めた。


その後、中央政界とのパイプを強め、大崎一揆や九戸政実の乱を制圧し、領地の平定や拡大を図ると共に、盛岡への築城を手がけるなど南部(盛岡)藩の礎を築き、戦国末期の政情不安な激動の時代を生き抜いた武将である。



南部信直公石碑から輪台城跡を望む


慶長4年(1599)10月5日に福岡城で54歳で病死し、現在の青森県南部町三光寺に埋葬された。


平成17年1月岩手町教育委員会

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